Talking Eyes

プチパパは、山口で元気に暮らしています。痩せたし、ほぼ健康になったし ・・・・ 多少、否、多分に刺激欠乏症気味ですが(笑)

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壇ノ浦の戦い

時は寿永4年3月24日(1185年4月25日)、所は長門国赤間関壇ノ浦(下関市関門海峡)。
ここは、最も狭いところは700mもない狭いところを数多くの大型船が行きかう海上交通の難所。
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連戦連敗で西へ西へと落ちてきて、本州の最西端彦島にベースキャンプを置く平家。文字通り背水の陣で、500余艘の水軍が東行きの潮の流れに乗って、最後の戦いの戦端を開きます。
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幼帝安徳天皇と二位の尼の姿も見えます。この後の悲劇をまだ知る由もなく、振りまく笑顔がいと哀れです。
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東から西へと攻めようとする源氏に対して、潮流は逆。東向きの潮流に乗って、平家は緒戦を優位に進めます。
しかし、せっかく優位に戦い進めたのですが、水夫や船頭といった非戦闘員への攻撃という義経の卑怯な戦法と源範頼による陸地(門司関:赤間関の対岸)からの遠矢による援護射撃もあり、平家は源氏を攻め切れません。

そうこうするうちに潮は西向きに変わり、源氏が攻勢に立ちます。
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おっとぉ、義経の舟でしょうか。
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そうです、義経です。弁慶もそばにいます。
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この源氏の反転攻勢に耐え切れなくなった平家は総崩れ、壊滅状態になります。
敗戦を悟った二位の尼は、「波の下にも都がある」とウソをついて、安徳天皇を抱いて入水するのです。

せめてこのウソを本当にしてあげようと建てられたのが赤間神宮。
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竜宮城をモデルに作られたとか(浦島太郎監修?)。

壇ノ浦の戦いで戦死した平家の武将たちの墓、平家塚も赤間神宮の境内にあります。
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と、こんな感じの話をあたかも見てきたように琵琶で弾き語りしたのが耳なし芳一ですが、迫りくる悪霊に対して立て籠もったお堂、芳一堂も平家塚の横にあります。
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でも、源九郎義経が朝寝坊して、弁慶に追い立てられるようにして舟に向かった話や、
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弁慶:急がれよ、九郎殿。大将が合戦に遅刻するなんて、聞いたことありませぬぞ!
義経:朝飯も食ってない身では走れぬ。弁慶、おんぶ!


源氏や平家の何人かの武将たちは船酔いして役に立たなかった
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武将1:せめて元気なフリだけでもなされよ。みんな見てござるぞ。
武将2:朝飯を全部吐いて、そんな元気は微塵も残ってはおらぬ。手もこれくらいしか挙がらない。

なんて話は、平家物語には載っていません。


これが下関海峡祭り「源平舟合戦」です。もうひとつの目玉、先帝祭「おいらん道中」というのがあって、これは平家の女官たちが女郎に身をやつしても生き延び、毎年、安徳天皇の命日にお参りしたという言い伝えを再現したものだそうです。でも、こっちは、赤間神宮にものすごい人出があるのでパス。
それでなくても、この日は下関は一年で最高の人出なのですから。
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